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【グリーフ・サバイバー】では、「自殺」に対して「自死」を使用する事としています。
「殺」という文字にはどうしても「悪」、「罪」、「反社会的」というニュアンスが伴います。確かに、1日でも長く生きた いと思っている人がいて、その立場から見れば、自らの命を絶つというのは、冒涜的と感じられるかもしれませんが、自死はそのほとんどが、「他に方法がない」と本人が感じるところまで追い込まれる状態から発生しており、単純に「弱いから」「逃避」と非難、卑下する事は不適切と考えられています。自殺と言う言葉は、そういったネガティブな社会的な刷り込みを助長する傾向がある事、また、後で述べるような、遺された者の感じる自責感や、社会からの疎外感、偏見、蔑視、忌避感を延長する面も多いため、【グリーフ・サバイバー】では基本的には自死と言う用語を使用する事にしています。但し、慣用的な用語(自殺対策)などでは自殺を使用する事もあります。
年間の自死による死亡者数が3万人を超えている事が注目されています。自死によって「遺された者」として影響を受ける人の数には様々な考え方があると思いますが、その5から10倍、すなわち15万人から30万人ほどが、毎年新しく自死遺族となると考えられています。さらに、「自殺対策支援センター・ライフリンク」の研究『自殺実態白書2008(第二版)』によると、2006年時点で、日本には300万人の自死遺族がいると言う事です。これから見ていくように、自死遺族は非常に複雑なグリーフを抱え、グリーフの複雑化も懸念され、又、自死遺族は自らが自死する可能性が高いことが知られており、精神の健康、並びに自殺予防への影響という観点からも支援が望まれているという事が出来ます。
自死がほかの死に関して、遺された者に与える影響が強いかどうかには異論もありますが、自死による死は、一般的に遺された者にとって非常に負担の大きいものであることが知られています。自死は、自分が今まで信じてきた価値基準(人生は意味がある、自殺すべきでない)を侵害する行為で、遺された者は、愛する人がいなくなってしまったという事実だけでなく、答えの出ない「なぜ」という疑問にさいなまれ、強い自責感や孤立感を感じると言われています。
また、自死の社会的な認識、あるいは自己の投影する社会のイメージが死が自死である事を認めることを難しくし、自死であることを隠そうとするがためにその死への適応はさらに難しくなります。このセクションは「自死で遺されたひとたちのサポートガイド」(アン・スモーリン、ジョン・ガイナ:明石書店:2007)を参考に、自死遺族の直面する問題についてまとめていきます。
死に直面して死を否認する事(「死んだなんて嘘だ!」)は、事実を認めない事で、耐えられない感情から自分自身を守る防衛機能と考えられており、多くの死、特に予期しない死のケースで一般的な死亡直後の反応です。一般的な死の否認は、一時的に死亡した事実の否認するのみにとどまりますが、自死の場合の否認は何層にもわたる複雑な否認、時には故意の否定、隠ぺいの形を取る事があります。
こういった否認は、通常の否認が一時的に死を受け入れる時間を延ばすだけなのに対し、いくつかの複次的影響を与える事になります。例えば、本当の死因を(うすうす)知っているのに無理に押さえつけたり、本来助け合うべき関係の崩壊させたり、怒りの本当の源を直視していないので怒りが収まらなかったり、周りに嘘の死因を語っているので、家庭内でもその話題がタブーになる、死因が言えないので自死である事を一人で嘆き悲しむことが多い、などの影響があります。
自死遺族は自死を防ぐことが自分にできたのではないか、という苦しい問いを自分自身に投げかけます。自分のしたこと、しなかった事を振り返り、故人の言ったことに些細なヒントがあったのではないか、と思い悩み、「今思えば」とそれを気が付かなかったことを後悔します。「もっと物わかりのいい親だったら」自死しなかったのではないか、それとも「もっと厳しくしていたら」と相反する可能性を検討し、頭の中は疑念と自責感で埋め尽くされて、どうするのが良いのかわからないような状態です。
実際には、こういった罪悪感には殆ど根拠がなく、遺された者は、下のような事実を理解するべきなのですが、遺された者は、頑固な自己否定的思考に陥っており、非現実的な罪悪感から中々譲歩出来ない事が良くあります。
自死をめぐる、「恥」「秘密」「孤立」は相互的に影響し合うトライアングルで、自死遺族をさらに難しいところに追い込んでいきます。
遺族は様々な経験をする中で、自らの考えや、周囲からの心無い言葉や態度に影響され、自死を公表する事をためらい、秘密にし、一人きりでグリーフする傾向があります。自身も自死遺族である静岡福祉大学助教授の吉永洋子は、この様子を「遺族が悲しみを表現することへのためらいは、家族の死によって傷ついた心が、世間の好奇と偏見、無理解の前で、言い返すこともできず、言い訳することさえ許されないまま、一方的に傷ついていくしかない体験を繰り返すなかで助長されていく側面もある。」と説明しています。(静岡福祉大学研究紀要7号「自死遺族からの声」)
しかし、この「恥」「秘密」「孤立」のトライアングルには「心無い社会の偏見」VS「傷つく遺族」以上の物があるように思われます。ここではまず、この状況をめぐる要素について考えてみたいと思います。
このような要素を見ていくと、 「恥」「秘密」「孤立」をめぐるトライアングルは循環的、双方向的な状態なのではないかと感じられます。現時点で、社会一般に自死についての理解が欠けており、遺族が無知、誤解、偏見にさらされる場面がある事は理解できます。しかし、この「社会からの偏見」を理由とした秘密主義には弊害が多くあります。アン・スモーリン、ジョン・ガイナによれば、秘密は恥の意識や罪悪感を加速させ、孤立をさらに悪化させると言います。
遺された人は、自殺について多くの人に話す心の準備ができていないかもしれません。むしろ、夫は心臓発作を起こしたとか、娘は事故死したなどといいたいかもしれません。それはまだ他者の反応に対処する覚悟ができていないからだ、とあなたは主張するでしょう。たぶん、そのとおりなのだと思います。本当に対処に困るような反応が返ってくることも確かにあるでしょう。でも、自殺という事実を隠すことの根本的な問題は、あなた、そしてあなたの気持ちが被る影響なのです。「これは隠しておかなければならないことだ」と自分にいい聞かせれば、(理性はともかく)感性の方は「これ は恥じなければならないことだ」と解釈するでしょう。
(「自死で遺されたひとたちのサポートガイド」アン・スモーリン、ジョン・ガイナ:明石書店:2007)
多くの遺族が体面を保つために、その死が自殺だったというや実を知らせたくないと感じます。しかし、このような事実を隠しておくと、蓋恥心がくすぶりつづけます。その結果、そもそもの孤立の原因である否認が長期化します。事実を打ち明ければ同情に満ちた理解が得られ、回復につながるかもしれないのに、秘密主義はそれを阻むのです。
ありがちなのは、遺族の中の1人か2人が不安や間違った自尊心から、ほかの全員に荷口令をしくことです。しかし、何かをひた隠しにすればするほど、秘密は蓋恥心や罪悪感を生みやすくなります。隠していた事実を話してみたら、周囲の人はすでに知っていたとか、何となく気づいていたなどというケースは珍しくありません。事実を告げれば、何が起きたかを全員が理解できるだけでなく、それに対する他者の反応も知ることができます。周囲の人は'励ましや慰めの反応を示せます。
(「自死で遺されたひとたちのサポートガイド」アン・スモーリン、ジョン・ガイナ:明石書店:2007)
自死遺族は故人に対する愛と怒りの入り混じった複雑な感情を覚えるようです。大切な人の死を悲しむ気持ちと同時に、自分をひどく苦しめている事に対する怒り、と同時に問題を抱えがちであった故人との関係が終わったことに安堵を感じることもあります。自死遺族は「許さざれる自死を許したい」といった矛盾する感情に向きあっていく必要があるのです。
ある程度のうつ傾向はすべての死別に現れるものですが、自死遺族はサポートもなく「死について語れない」で、強い自責感を持ち、絶え間ない「なぜ」を探す作業の為にうつが継続する傾向があります。
自死遺族の直面する問題を見てきたわけですが、いかに自死の事実を自ら認め、それを周囲に伝える事が、難しいかがわかります。しかし、と同時にこの秘密主義こそが、遺族のナラティブを奪い、孤立とうつを加速させているのです。このことに簡単な解決策はありませんが、アン・スモーリンとジョン・ガイナは、「自殺が故人の人生の全てでなく、人生の終わり方に過ぎない。亡くなり方だけでなく、どのように生きたか、その人生こそが記憶されるべきだ」と述べています。
大人は、一般的に「子供には死が理解できないのではないか」「ショッキングすぎるのではないか」と、家族内の死を伝えるのをためらう傾向があります(一般論は:子供に死をどう伝えるか)。特に自死の場合は、大人でも戸惑う状況に、説明の難しく、自死が死の原因であったことと隠す傾向があります。
実際、思春期の子供は自死に対して過激な反応をすることがあり、うつ、引きこもり、不登校、逆に不良行為、あからさまな暴力を伴う事があります。しかし、子供と死について著作の多いレイコ・シュワブは、それでも説明する事が重要であると訴えています。「子供が小さくても、自死については伝えるべきです。隠そうとするのは大体失敗しますし、ばれたときには受け入れにくくなっています。子供や青少年は、ひどい悪夢や想像、特に死は自分のせいであるという考えに悩まされがちです。死が自死である事が子供のころにばれると混乱を招き、大人になってばれると長期にわたる裏切りへの怒りが問題となります。子供に適した言葉で説明してやり、子供の罪、恥、怒り等を平常化する事が重要で、必要なら子供向けのセラピストに話す事を検討する必要があります」。(「死と死ぬことの百科事典」より)
「自死で遺されたひとたちのサポートガイド」には隠ぺいがいかに長期的に子供を傷つけるのかの例が紹介されています。「母と喧嘩をした子供が、家を飛び出した間に母が自死をしたが、父は子供が傷つくのではないかと心臓麻痺と伝えた。子供は「自分が喧嘩で与えたストレスが発作の引き金になった」と信じていたばかりか、父親が発作について自分と話し合えな かったため、自分は母親の死のことで咎められている成人になるまで確信していた。」このようなケースでは、本来共に支えあう関係であるはずの父子が嘘によって切り離されてしまうという状態になっていることがわかります。
子供は年齢と理解力に応じた形で自死の事実を伝え、「自分が悪いのでお父さんが死を選んだ」「お母さんを助けられなかった」といった感情に対処する方向にエネルギーを注ぐべきと思われますが、遺された遺族が子供のケアよりも自身への没入が進んでいると、遺された子供はほって置かれる状態になる事もしばしばです。
自死遺族にとって、自助グループ、サポートグループへの参加は非常に重要だと考えられています。一つは、自死遺族は孤立しがちで、実際には年間15万人以上の新しい自死遺族が生まれているにもかかわらず、自らが非常に特殊な環境に置かれていると認識しており、実際に死について語ることが出来ない環境で、一人でグリーフしていることが多いからです。自助グループ、サポートグループは、自分が一人ではないことを知り、多くの参加者が、「自助グループに参加するまで自死について語る機会は全くなかった」という事から解るように、同様の経験をした人々が集い語り合う場は非常に重要な意味を持っていると言えます。
しかし、自死遺族へのサポートにはいくつかの問題点が指摘されています。
年間の自死が3万人を超え、社会的に問題であるとの認識が高まってきたこともあり、「自殺予防」には多くの注目が詰まっています。メディアで報道される「うつ」の早期発見、治療へのキャンペーンなどが知られるところです。それに加えて、最近は、自死遺族の自死率が高いことから「自死遺族支援」への取り組みが始まってきました。
ところが、この傾向に自死遺族から「自殺予防対策として自死遺族支援をやって欲しくない」との声が発せられています。これについて、奈良女子大学の清水新二は、「自死した大切な人の行為、生き様そして死に様は、遺族からすると単に予防の対象ではあり得ず、ましてや否定的にしか理解されないものではない、との思いであろう」と分析しています。(「自死遺族の免責性と自殺防止システム」(『自殺予防と危機介入』、2010)
実際の遺族の声としては、例えば、鈴木愛子は、「予防は『これから』に向かうベクトルで、遺族のケアは『既に起こった(過去の)出来事』への手当である。時間軸も、対象も異なるものを、一括りにとらえることから、ある種のねじれが生じていると感じている」(「自死”予防”と遺族―案じてくれるまなざしがある限り―」、清水新二編『封印された死と自死遺族の社会的支援』より)と述べ、自殺予防を行う者と遺族との方向性の違いを指摘しています。また、自死遺族の自助グループである「リメンバー名古屋自死遺族の会」は会のコンセプトとして「自殺予防を目的とする活動を行わない」事を明記し、その理由として「自殺予防活動によって強く傷つく遺族が存在すること」を挙げ、慎重な姿勢を示しています。
清水は、自殺防止と遺族支援にはコンセプトとして両義的で、ある意味で整合性がないことを認め、それゆえに、自殺防止と遺族支援は別物と考え、位置づけたほうが「より真摯に遺族に寄り添うことができる筈」と言っています。
自殺者本人と遺される立場の遺族との間には、自らの命を終えるのと死に逝かれる、という大きな相違が存する。この相違を考慮しつつ、私たちは自殺企図者には生きていてほしいとの願いをこめて「自らを殺す」行為として自制を求め自殺防止への努力をし、あるいはまた一般住民を対象にいのちの大切さを喧伝して自殺予防活動とする。他方で、遺族には免責性を考慮して「誰が悪いのでもなく、どうにも防げない自死というものがある」と応じて、「自殺」を「自死」と呼び換え案じるまなざしとして「自死」にいくぶんなりとも受容的な意味づけもする。当然、この両義的姿勢はなにがしかの曖昧さ、不確定感を私たちの中に引き起こす。
清水新二:「自死遺族の免責性と自殺防止システム」(『自殺予防と危機介入』、2010)